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絆 -再びの空へ-Blue
Impulse
Blue 震災後2週間の東松島に車を走らせ、2年以上にわたって記録された取材映像が、迫真のドキュメンタリーとしてついに映画化。
そこには、普段目にすることのない航空自衛官の生きざま、困難の中で諦めず懸命に立ち向かう姿が刻まれている。
東日本大震災発生当時、ブルーインパルスの所属する宮城県松島基地には津波が押し寄せ、全ての航空機が壊滅的な被害を受けた。しかしブルーインパルスは、展示飛行のために別の基地へ展開しており、
奇跡的に難を逃れる。修羅場に変わった松島基地へ身一つで戻った隊員たちは、自身も家族も被災者でありながら職務を果たすため、基地周辺被災地の復旧活動と民生支援に没頭した。
震災から3ヵ月後、北九州の航空自衛隊芦屋基地で、技量回復のために移動訓練が行われた。
災害派遣は引き続き行われ、被災地はまだまだ厳しい状況の中、チーム復活への取り組みが始まる。
「本当に自分たちは飛んでいいのか?」「飛ぶことが復興につながるのか?」さまざまな葛藤の中で、ブルーインパルスは多くの人たちに支えられ復活していく。隊員たちは訓練を重ねながら、マザーベース松島基地へ帰還する日を、心に強く思い描いていた。
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【ブルーインパルスとは?】
アクロバット飛行を専門とする部隊。宮城県松島基地に所属する第四航空団第十一飛行隊。通称、ブルーインパルス。
1960年、浜松第一航空師団第二飛行隊の“空中機動研究班”として創設。『東京オリンピック』『大阪万国博覧会』での展示飛行によって国内外に広く名を知られた。22年間に545回の公式展示飛行を行った“F-86”から、国産初の超音速高等練習機“T-2”を経て、現在は国産中等練習機“T-4”を使用。 |
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ブルーインパルスは、1960年に創設されたアクロバット飛行チーム。
航空自衛隊の「第4航空団第11飛行隊」として宮城県の松島基地に所属している。
松島基地は2011年3月11日の「東日本大震災」の津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた。
滑走路は使用できず、航空機の全てが流され使用不能となっていた。ブルーインパルスの機体も流失、機体を持たない部隊となって解散となる筈であった。
しかし、ブルーは生き残った。遠く九州・福岡の芦屋基地に、翌日のイベントの為に、機体、人員共に移動していたのである。松島基地の航空機で唯一残ったのはブルーインパルスのT‐4だけだったのだ。それは、まさに奇跡だった。
交通機関が麻痺している中、輸送機とバスを乗り継いで松島に戻ったブルーの隊員は被災地に向かった。被災した人達の力になるために。
隊員の中には、被災した家族を持つ者も少なくない。しかし、彼らは家族よりも被災地の救援活動を優先させた。華麗なアクロバット飛行をしていた彼らが、自転車に乗って移動し、住民への給水活動、民家の家財道具の運び出しなどに励んだ。
2か月後、ブルーインパルスは芦屋基地での訓練を再開するが、悪天候のため思うように技能を取り戻すことができない。
しかも、自分たちが飛んでいる間も、被災地の人たちは住む場所もなく苦労して居るのは十分わかっていた。
自分たちは飛んでいて良いのか。自分たちのしていることは正しいのだろうか?
ブルーインパルスの皆の自問自答の日々が過ぎていった。
松島の人たちは、救難機以外の音がしなくなった町で、震災前のようにブルーに飛んで欲しいと願っていた。
町の上をブルーインパルスが飛ぶ。それが町が元通りになるということだから……。
震災から4か月、ブルーインパルスは被災地・東松島の空を飛んだ。
復興を願って開催された<元気祭り>のイベントとして。予想を超える大勢の人たちが震災後初の、ブルーの飛行を見るために集まり、空を見上げて、歓声を上げてくれた。
その時からブルーインパルスは、再び空を飛ぶ意味を見出していた。自分たちが、かつてのように飛ぶことこそが「東日本大震災」を乗り越える日本の“勇気”を示すことなのだと。
しかし、訓練時間は不足していた。以前と同じアクロバット飛行をすることはできない。
パイロットたちは苦悩していた。しかし、彼らの帰還を待つ人たちが居る。彼らの帰りを待つ家族たちがいる。
それに答える為に、ブルーインパルスは、空に向かって飛び続けた。
震災から2年半、そんなブルーインパルスをカメラが克明に捉えていた。
その映像は、人間の根源を静かに問いかける記録として、今完成した。 |
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